余命ブログを読み慣れていない方へ、理解しやすい読み方の順序(タイトル右下の「目次へ移動」から「余命まとめ目次」もご参照ください)
①日本再生計画(計画の概要)  ②敵を分散&個別撃破せよ(対処フロー)  ③以降は興味のある記事からどうぞ  おまけ:余命3年時事日記、まとめ年表・2016
有事の最低限度(有事とは人の命がかかった実戦です)
有事・要警戒リスト ・有事の身分証明は必須 ・武力攻撃やテロなどから身を守るために  おまけ:・護身特集 ・有事対応、短編記事リンク集

・当ブログはリンクフリーです。詳細はこちら 自己紹介   ・?なブログリスト ・ブラクラチェッカー(webサイトの危険性を閲覧前に確認)
【拡散希望】 川崎発、日本浄化デモ第三弾(2016.6.5、五十六パパ様主催) 現場動画集
【拡散希望】 許すまじ朝鮮人! 朝鮮人の象徴たる動画動画のスクリーンショット集を作りました
【信濃雑感】 竹島の日(2016.2.22)、竹島×韓国といえば竹島上陸・天皇陛下侮辱発言、この他に日本乗っ取り完了宣言もしていた!

2016年7月1日金曜日

【信濃雑感】 民間での「旗旒(きりゅう)Z」、皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ


「来るというから来るんじゃろ、通るというから通るんじゃろ」

※NHKドラマ「坂の上の雲」、第12回「敵艦見ゆ」より
 作中では、敵・バルチック艦隊(露海軍)が対馬海峡を通るのか、津軽海峡を通るのか、悩む作戦参謀・秋山真之に、連合艦隊司令長官・東郷平八郎が語った言葉。



 ご存知のように、余命ブログと読者さんとの関係は、信頼感に基づく自主的・自律的な繋がりです。組織ではないので指揮命令系統はありません。余命さんは、信頼感に基づく任意の民間の旗振り役と言えるでしょう。ちなみに、自衛隊を含む政府の最高指揮官は、ご存知の通り安倍総理です。
 さて、7月は大きなイベントが立て続けにあります。今後、数十年の日本の行く末を左右する「民間の山場」と言えます。余命さんと安倍総理を信頼して、互いに補いながら、この山場を乗り切っていければと思います。
 「(その時が)来るというから来るんじゃろ、(その道を)通るというから通るんじゃろ」



7月1日、大阪市ヘイトスピーチ条例施行
…如何に運用されるのか、不当な日本人差別、過度な外国人保護になってしまうのか
「大阪市ヘイトスピーチへの対処に関する条例」について >> 条例全文
…大阪市ホームページ、2016年6月27日

7月近日、余命さん告発支援サイト立ち上げ
…反日・在日勢力の告発から、告発受理、捜査着手なるか
…売国奴国会議員はじめ、外患罪容疑者の告発受理、捜査着手なるか

7月10日、参院選投開票(6月22日公示済み)
…自民党躍進なるか
…野党共闘から壊滅なるか(民進(民主+維新)、共産、社民、生活)
wikipedia-第24回参議院議員通常選挙

7月14日、都知事選告示
…桜井誠氏立候補(在特会・元会長、行動する保守運動・現代表)
…選挙戦で日本人が目覚めるか
wikipedia-2016年東京都知事選挙
都知事選、桜井劇場で特権ホイホイ、「志」を支援したい 2016.6.29

7月31日、都知事選投開票



※内外情勢 (2016.7.2追記)
日本の内外ともに、非常に緊迫した情勢で始まった2016年7月です。
時事リンク集、日米・日中・米中・日韓・日朝・日露、2016年6月後半
時事リンク集、日米・日中・米中・日韓・日朝・日露、2016年6月前半
時事リンク集、日本国内、憲法改正・共謀罪・テロ・難民・移民、2016年6月後半
時事リンク集、日本国内、憲法改正・共謀罪・テロ・難民・移民、2016年6月前半
(追記以上)



坂の上の雲 「敵艦見ゆ」~天気晴朗なれども、浪高し。
平成エンタメ研究所様、2011年12月19日
 バルチック艦隊が対馬から来るか、太平洋をまわって津軽海峡から来るか?
 真之(信濃注:秋山真之、連合艦隊作戦参謀)は迷い、あせる。何度も艦隊を津軽海峡に移動させるよう進言する。自分が判断を間違えれば、この戦争の結果が違ってくる立場にいたのだから相当なプレッシャーだったとは思うが、真之は実に真摯だ。余裕がない。
 一方、こんな真之をフォローするのが、上官である島村速雄(舘ひろし)(信濃注:連合艦隊参謀長)や東郷平八郎(渡哲也)(信濃注:連合艦隊司令長官)だ。
 迷う真之に島村は冗談めかして言う。「遅い遅いとキリキリするのは、まるで巌流島の小次郎じゃき」
 東郷は「対馬を来るというから来るんじゃろう。通るというから通るんじゃろう」
 これは、<バルチック艦隊が対馬から来ると判断したのはすべて自分の責任、真之はただ作戦のみに専心しろ>という東郷の思いの表れであろう。
(引用以上)

wikipedia-日露戦争
 日露戦争(英語: Russo-Japanese War、1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国[7]との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。
 講和の結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置され、ロシアの租借地があった関東州については日本が租借権を得て、関東都督府が設置された。
(引用以上)

wikipedia-日本海海戦(日露戦争)
 日本海海戦(1905年5月27日 - 28日)は、日露戦争中に行われた海戦である。日本以外ではこれを主力決戦の場所に因み対馬沖海戦(英語:Battle of Tsushima)と呼ぶ。
 この海戦は日本海軍の連合艦隊と、ロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊との間で戦われた。連合艦隊はロシア海軍両艦隊を撃滅し戦力のほとんどを失わせたが、連合艦隊の損失は軽微という海戦史上稀な一方的勝利となった[5]。これにより両国間のポーツマス講和会議への道を開いた。
 なお日本では上記のロシア海軍両艦隊を指して「バルチック艦隊」と呼ぶことが定着しており本稿でもこの呼び名を用いる。
(引用以上)

wikipedia-東郷平八郎

wikipedia-島村速雄

wikipedia-秋山真之



民間での旗旒(きりゅう)Z
「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」

デジタル大辞泉-旗旒信号
きりゅう‐しんごう〔キリウシンガウ〕【旗×旒信号】
船舶で、国際信号旗を組み合わせてマストに掲揚して行う信号法。
(引用以上)

 日本人の団結はスタンド・アローン・コンプレックス(自立複合体)だと思います。各々が意志を持って、目的に向かって自分にできることを自分で見つけて実践していくことだと言えます。だからこそ奥が深く、懐が深く、重層的で、強力なのだと思います。
 民間がZ旗を掲げ、皇国の興廃を賭けて戦うときは、まさに今だと思います。各員できることを、一層奮励努力したいものです。




坂の上の雲   日本海海戦   Turning Point Full HD
https://www.youtube.com/watch?v=P5ze4-iFEL4
THEBES86 様、2012/07/19 に公開



wikipedia-日本海海戦(日露戦争)
Admiral Togo on the bridge of Mikasa
連合艦隊旗艦三笠艦橋で指揮を執る東郷平八郎大将
(引用以上)

wikipedia-Z旗

 Z旗(ゼットき)、Z信号旗(ゼットしんごうき)は船同士の意思疎通のために用いる国際信号旗の1つ。国際信号旗はアルファベット文字旗(26種)、数字旗(10種)、代表旗(3種)、回答旗(1種)の計40種。この中でZ旗はアルファベットの"Z"の文字を示す信号として用いられる他、単独で「私は引き船が欲しい」、漁場では「私は投網中である」の意を示す信号としても用いる。
 日本では、旗に付けられた意味に因み(意味は後述)、スポーツ競技の応援や、選挙・受験等、負けられない勝負に挑む時、勝利』を祈願して用いられる場合もある。
(引用以上)

wikipedia-Z旗 >> 海戦における使用
 国際的にはZ旗は前節の意味しか有していない。しかしZ旗は海戦史において特別な意味を持つ旗としても広く認知されている。
 日露戦争時の1905年5月27日 - 28日にかけて日本海で行われた日本海海戦の際、トラファルガー海戦の事例に習い、東郷平八郎連合艦隊司令長官の座乗する旗艦三笠のマストにZ旗を掲揚し、皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」という意味を持たせて掲揚した。この文案は名文家として有名な連合艦隊参謀の秋山真之であるとされている。
 日本海海戦の逸話以降、日本海軍ではZ旗は特別な意味を持つこととなり、太平洋戦争(大東亜戦争)中の日本海軍では、大規模な海戦の際には旗艦のマストにZ旗を掲揚することが慣例化した。真珠湾攻撃での赤城では、Z旗を直接掲揚せず、DG旗(D→Gの順で並べて掲揚)をZ旗の代わりとして(DG旗はZ旗と同意味で用いられる)掲揚した。また、太平洋戦争末期の第二五二海軍航空隊攻撃第3飛行隊は、彗星の垂直尾翼にマーキングとして使用したことで知られる。
(引用以上)





おまけ

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」心に残るあのセリフ+α
https://www.youtube.com/watch?v=7ujvAlZgP0Q
donttyan 様、2012/07/31 に公開
旗旒(きりゅう)Zを、放射能まみれのこの福島の空に揚げたかった。
特に児玉のセリフは今の政府に聞かせたい。
旗旒(きりゅう)とは、艦船が他の艦に対して送る旗信号であり、この場合の「Z旗」は­戦闘を意味する。
(引用以上)

wikipedia-野田内閣(上記動画のアップ当時は民主党・野田内閣、民主党は現・民進党)
この項目では、2011年9月2日から2012年1月13日までの野田内閣について説明しています。
・2012年1月13日から6月4日までの改造内閣については「野田内閣 (第1次改造)」をご覧ください。
2012年6月4日から10月1日までの第2次改造内閣については「野田内閣 (第2次改造)」をご覧ください。
・2012年10月1日からの第3次改造内閣については「野田内閣 (第3次改造)」をご覧ください。
(引用以上)



坂の上の雲 次回予告集
https://www.youtube.com/watch?v=WlJGFYvJwac
はささは 様、2013/08/12 に公開

 

『Stand Alone』 NHK スペシャルドラマ「坂の上の雲」 三宅 由佳莉 海上自衛隊 東京音楽隊
https://www.youtube.com/watch?v=sXpKMO4XGx8
ikoan01 様、2016/04/17 に公開
平成28年春の神武祭 トワイライトコンサート
橿原神宮外拝殿前広場(奈良県橿原市)
(引用以上)



陸自の歌姫 『スタンド・アローン』 NHKドラマ”坂の上の雲”より 陸上自衛隊中部方面音楽隊
https://www.youtube.com/watch?v=xjUChElmNf4
YUKIHIKO KOSHINO 様、2015/06/11 に公開
中部方面隊音楽祭りでの歌姫こと鶇真衣さんの熱唱!
(引用以上)





以下、添付資料

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

添付資料一覧

【信濃雑感】 出港、本日天気晴朗ナレドモ浪高シ 2016.5.23
>> 気を引き締めて出港したいものです

【信濃雑感】 出港、本日天気晴朗ナレドモ浪高シ 2016.5.23
>> コメント欄、信濃太郎 2016年5月23日 21:47

【信濃雑感】 結城モイラ様、占いを信じる柄ではないが「主張」には一理ある 2016.3.23
…占いを信じる柄ではありませんが、ちょっと気になります。気にしてるという突っ込みはナシで。

wikipedia-日露戦争 >> 経過
wikipedia-日露戦争 >> 経過 >> 開戦時の両軍の基本戦略
wikipedia-日露戦争 >> 経過 >> 開戦
wikipedia-日露戦争 >> 経過 >> 旅順要塞攻囲戦・黄海海戦・遼陽会戦
wikipedia-日露戦争 >> 経過 >> 旅順攻略
wikipedia-日露戦争 >> 経過 >> 奉天会戦
wikipedia-日露戦争 >> 経過 >> 日本海海戦
wikipedia-日露戦争 >> 経過 >> 樺太攻略
wikipedia-日露戦争 >> 経過 >> 講和へ



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【信濃雑感】 出港、本日天気晴朗ナレドモ浪高シ 2016.5.23
>> 気を引き締めて出港したいものです
 ご存知のように、日本海海戦は日露戦争で日本が勝利する決め手となった戦いです。「日本が勝った」のは事実ですし、聞こえがいいものです。しかし現実の日露戦争は、陸海軍ともに開戦から紆余曲折を経て、かろうじて大国・ロシアに勝ったと言った方が正確でしょう(添付資料参照)。相手のある現実の戦が如何に困難であるかを物語っていると思います。
 反日・在日勢力という相手のある今次の戦(情報戦含む)も、そうそう簡単にいくとは思えません。相手があるということは裏をかかれる可能性があるということです。また、味方の作戦が必ずしも上手くいくとは限りません。あとは状況に応じて対処する以外にありません。
 どんな敵でも得意とする戦法があると思います。月並みですが甘く見てはいけませんね。
 ちなみに、油断が敵に対して付け入る隙を与えてしまうことは、大東亜戦争後70余年の歴史のみならず、大東亜戦争の敗戦に至る歴史にも言えることかと思います。
 明後日、5月25日には余命さんから発表があるとか。
 「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
 気を引き締めて、決戦に向けて出港したいものです。
(引用以上)



【信濃雑感】 出港、本日天気晴朗ナレドモ浪高シ 2016.5.23
>> コメント欄、信濃太郎 2016年5月23日 21:47
 ブロガーは情報戦の兵站部隊です。読者さんに情報戦の武器、即ち、判断材料となる情報を提供する役目です。読者さんは各位で判断し、自分にできる行動をとるでしょう。旗振り役はもちろん安倍総理と余命さんです。安倍総理は自衛隊を含む政府の最高指揮官、余命さんは民間の日本人の旗振り役です。
 日本人の団結はスタンド・アローン・コンプレックス(自立複合体)だと思います。各々が意志を持って、目的に向かって自分にできることを自分で見つけて実践していくことだと言えます。だからこそ奥が深く、懐が深く、重層的で、強力なのだと思います。
(引用以上)



【信濃雑感】 結城モイラ様、占いを信じる柄ではないが「主張」には一理ある 2016.3.23
 さらに悪いことには、火の星座である射手座には土星が居座っているだけでなく、3月初旬からは火星も射手座を進行しはじめ、5月下旬から8月頭までは火星が蠍座を逆行。その後、再び射手座に戻り、9月末まで射手座を進行します。つまり、3月から9月にかけての7ヶ月もの間、火星は蠍座と射手座を中心に動くのです。これはまさにテロや戦争の激化を意味します。なぜなら、火星の守護神は戦いの神マルス。この火星が射手座に入ると、ちょっとした出来事にも過剰に反応し攻撃的になるためです。さらに、蠍座の火星は復讐心を増大させ、残虐な行動に走らせる危険性もあります。
(引用以上)

※占いを信じる柄ではありませんが、ちょっと気になります。気にしてるという突っ込みはナシで。



wikipedia-日露戦争 >> 経過




wikipedia-日露戦争 >> 経過 >> 開戦時の両軍の基本戦略
日本側
 海軍が第一艦隊と第二艦隊をもって旅順にいるロシア太平洋艦隊を殲滅ないし封鎖し、第三艦隊をもって対馬海峡を抑え制海権を確保する。その後陸軍が第一軍をもって朝鮮半島へ上陸、在朝鮮のロシア軍を駆逐し、第二軍をもって遼東半島へ橋頭堡を立て旅順を孤立させる。さらにこれらに第三軍、第四軍を加えた四個軍をもって、満洲平野にてロシア軍主力を早めに殲滅する。のちに沿海州へ進撃し、ウラジオストックの攻略まで想定。
 海軍によるロシア太平洋艦隊の殲滅はヨーロッパより回航が予想されるバルチック艦隊の到着までに行う。
 1904年2月11日大本営が設置された。このときは1903年の大本営条例の全部改正により軍事参議院が設置され、戦時においても初めて軍令機関が陸海軍並列対等となったことから、陸軍の参謀総長、海軍の海軍軍令部長の両名ともに幕僚長とされた。

ロシア側
 日本側の上陸を朝鮮半島南部と想定。鴨緑江付近に軍を集結させ、北上する日本軍を迎撃させる。迎撃戦で日本軍の前進を許した場合は、日本軍を引き付けながら順次ハルビンまで後退し、補給線の延びきった日本軍を殲滅するという戦略に変わる。太平洋艦隊は無理に決戦をせず、ヨーロッパ方面からの増援を待つ。
 ただしロシア側ではこの時期の開戦を想定しておらず、旅順へ回航中だった戦艦オスリャービャが間に合わなかったなど、準備は万全と言えるものではなかった。



wikipedia-日露戦争 >> 経過 >> 開戦
 日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが大きな戦果はなかった。
 同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。
 2月10日には日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた[22]。2月23日には日本と大韓帝国の間で日本軍の補給線の確保を目的とした日韓議定書が締結される。
 ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった(旅順港閉塞作戦)。
 4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の戦艦ペトロパヴロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させるという戦果を上げたが(後任はヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将)、5月15日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈される。
 一方で、ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊戦を展開する。これに対し日本海軍は第三艦隊に代わり上村彦之丞中将率いる第二艦隊の大部分を引き抜いてこれに当たらせたが捕捉できず、ウラジオストク艦隊は4月25日に日本軍の輸送艦金州丸を撃沈している。この時捕虜となった日本海軍の少佐は、戦後免官となった[23]。



wikipedia-日露戦争 >> 経過 >> 旅順要塞攻囲戦・黄海海戦・遼陽会戦
詳細は「黄海海戦 (日露戦争)」および「遼陽会戦」を参照
 黒木為楨大将率いる日本陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸し、4月30日-5月1日の戦闘で、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った(鴨緑江会戦)。続いて奥保鞏大将率いる第二軍が遼東半島の塩大墺に上陸し、5月26日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した(南山の戦い)。南山は旅順要塞のような本格的要塞ではなかったが堅固な陣地で、第二軍は死傷者4,000の損害を受けた。東京の大本営は損害の大きさに驚愕し、桁を一つ間違えたのではないかと疑ったという。
 第二軍は大連占領後、第1師団を残し、遼陽を目指して北上した。6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍部隊を得利寺の戦いで撃退、7月23日には大石橋の戦いで勝利した。
 旅順要塞に対して陸軍は3月上旬までは監視で十分であると判断していたが、その後3月14日、北上する2個軍の後方に有力な露軍戦力を残置するのは危険と判断し、2個師団からなる攻城軍を編成することを決定した。だが海軍側としては陸軍の援助なしの海軍独力による旅順の処理を望んだようで、事前調整の段階から陸軍の後援を要求しない旨をしばしば口外した大本営海軍幕僚もいたと伝えられる。
 4月6日に行われた陸軍の大山巌参謀総長、児玉源太郎次長と海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文には「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」という1文がある[24]ように、4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執し続け、閉塞作戦失敗後は機雷による封鎖策に転換し、4月12〜13日に実施されたが失敗した。
 ロシアバルト海艦隊(バルチック艦隊)の極東回航がほぼ確定し、追い詰められた海軍は開戦当初から拒み続けてきた陸軍の旅順参戦を認めざるを得なくなった。
 このような経緯により要塞攻略を主任務とする第三軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した経歴があった乃木希典大将が命された。6月20日現地総司令部として満州軍総司令部が設置され、大本営から指揮権が移された。
 6月8日に大連に到着した第三軍司令部は、すでに上陸していた第一、第十一師団(共に第二軍より抽出された)を貴下に加えて前進を開始し、6月26日までに旅順外延部まで進出した。7月12日には伊東祐亨海軍軍令部長から山縣有朋参謀総長に、旅順艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるよう正式に要請が入る。
 8月7日より海軍陸戦重砲隊が旅順港内の艦船に向け砲撃を開始し、旅順艦隊に損傷を与えた。これを受けて旅順艦隊は8月10日に旅順からウラジオストクに向けて出撃、待ち構えていた連合艦隊との間で海戦が起こった。この海戦で旅順艦隊が失った艦艇はわずかであったが、今後出撃できないような大きな損害を受けて旅順へ引き返した(黄海海戦・コルサコフ海戦)
 ロシアのウラジオストク艦隊は、6月15日に輸送船常陸丸を撃沈するなど(常陸丸事件)活発な通商破壊戦を続けていたが、8月14日に日本海軍第二艦隊に蔚山沖で捕捉された。第二艦隊はウラジオストク艦隊に大損害を与えその後の活動を阻止した(蔚山沖海戦)
 旅順艦隊は出撃をあきらめ作戦能力を失っていたが、日本側ではそれが確認できず第三軍は要塞に対し第一回総攻撃を8月19日に開始した。だがロシアの近代的要塞の前に死傷者1万5,000という大損害を受け失敗に終わる。
 8月末、日本の第一軍、第二軍および野津道貫大将率いる第四軍は、満洲の戦略拠点遼陽へ迫った。8月24日-9月4日の遼陽会戦では、第二軍が南側から正面攻撃をかけ、第一軍が東側の山地を迂回し背後へ進撃した。ロシア軍の司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領したもののロシア軍の撃破には失敗した。
 10月9日-10月20日にロシア軍は攻勢に出るが、日本軍の防御の前に失敗する(沙河会戦)。こののち、両軍は遼陽と奉天(現・瀋陽)の中間付近を流れる沙河の線で対陣に入った。
 10月15日にはロジェストヴェンスキー中将率いるバルチック艦隊(正確にはバルチック艦隊から抽出された第二太平洋艦隊)が旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発した。



wikipedia-日露戦争 >> 経過 >> 旅順攻略
詳細は「旅順攻囲戦」を参照
 第三軍は旅順への攻撃を続行中であった。しかしながら港湾への大弧山からの観測射撃を8月~10月まで、黄海海戦を挟んで実施し旅順艦隊の壊滅には成功していた。しかし日本側にそれを確認することができず、その後の作戦運用に混乱をもたらすことになった。
 第三軍は、要塞東北方面の防衛線を突破しその背後にある、旅順要塞で最高峰である「望台」を占領することで要塞の死命を制し、海軍の要望も果たそうとした。
 9月19日と10月26日の前後に分けて行われた第二回総攻撃は、突起部を形成している第一回総攻撃で占領した拠点の周辺を安定化させることを目的とし、203高地以外の作戦目標を攻略して目的を達成していたが、中央には失敗と判断された。
 この際に第三軍は海鼠山を占領し、旅順港のほぼ全てを観測することができるようになったが、旅順艦隊主力が引き籠っている海域だけが俯瞰できず、このころより海軍は、より旅順港を一望できる203高地の攻略を優先するよう要請をしだす。この海軍の要請に大本営も追認するが、第三軍と、上級司令部である満州軍は東北方面主攻を主張し続け対立。大本営と海軍は天皇の勅許まで取り付けて方針を変更するよう促す。
 11月26日からの第三回総攻撃も苦戦に陥るが、途中より乃木の判断で要塞東北方面の攻撃を一時取り止め、203高地攻略に方針を変更する。戦況を懸念した満州軍総参謀長児玉源太郎大将は、大山巌元帥の了承をもらって旅順方面へ向かっていたが、直前に乃木が攻撃目標を変更したことを受けて、その攻略に尽力した。
 激戦の末、12月4日に旅順港内を一望できる203高地の占領を達成した。しかしその後も要塞は落ちず、第三軍は作戦目的である要塞攻略を続行し、翌1905年1月1日にようやく東北方面の防衛線を突破して望台を占領。
 これを受けてロシア軍旅順要塞司令官ステッセル中将は降伏を決意。旅順艦隊は203高地を奪われた時点で、すでに艦砲と乗員を陸地に揚げて防衛戦に投入しており、戦力としては無力化していたが、観測射撃を受けるようになった。しかし日本側の砲弾の品質問題などで殆どの艦は船底を貫通されることはなく、殆どの艦艇は要塞降伏前後に、すぐさま使用できないように全て自沈させられた。
 沙河では両軍の対陣が続いていたが、ロシア軍は新たに前線に着任したグリッペンベルク大将の主導の下、1月25日に日本軍の最左翼に位置する黒溝台方面で攻勢に出た。一時、日本軍は戦線崩壊の危機に陥ったが、秋山好古少将、立見尚文中将らの奮戦により危機を脱した(黒溝台会戦)。2月には第三軍が戦線に到着した。



wikipedia-日露戦争 >> 経過 >> 奉天会戦
詳細は「奉天会戦」を参照
 日本軍は、ロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦を開始する(奉天会戦)。2月21日に日本軍右翼が攻撃を開始。3月1日から、左翼の第三軍と第二軍が奉天の側面から背後へ向けて前進した。ロシア軍は予備を投入し、第三軍はロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進を続けた。
 3月9日、ロシア軍の司令官クロパトキン大将は撤退を指示。日本軍は3月10日に奉天を占領したが、またもロシア軍の撃破には失敗した。
 この結果を受けて日本側に依頼を受けたアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが和平交渉を開始したが、間もなく日本近海に到着するバルチック艦隊に期待していたロシア側はこれを拒否した。一方両陸軍は一連の戦いでともに大きな損害を受け作戦継続が困難となったため、その後は終戦まで四平街付近での対峙が続いた。



wikipedia-日露戦争 >> 経過 >> 日本海海戦
詳細は「日本海海戦」を参照
 バルチック艦隊は7ヶ月に及んだ航海の末日本近海に到達、5月27日に連合艦隊と激突した(日本海海戦)。5月29日にまでわたるこの海戦でバルチック艦隊はその艦艇のほとんどを失うのみならず、司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受けた。これに対して連合艦隊は喪失艦がわずかに水雷艇3隻という、近代海戦史上においても例のない一方的な圧勝に終わった。
 この海戦の結果、日本側の制海権が確定し、頼みの綱のバルチック艦隊を完膚なきまで叩きのめされ追い込まれたロシア側も和平に向けて動き出した。
 また欧米各国における「ロシア有利」との予想をくつがえすだけでなく、バルチック艦隊が壊滅するという予想もしなかった海戦の結果は列強諸国を驚愕させ、トルコのようにロシアの脅威にさらされた国、ポーランドやフィンランドのようにロシアに編入された地域のみならず、イギリスやフランス、アメリカやオランダなどの白人国家による植民地支配に甘んじていたアジア各地の民衆を熱狂させた。



wikipedia-日露戦争 >> 経過 >> 樺太攻略
詳細は「樺太の戦い (1905年)」を参照
 日本軍は和平交渉の進むなか7月に樺太攻略作戦を実施し、全島を占領した。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなる[25]。講和以降の樺太には王子製紙、富士製紙、樺太工業などのパルプ産業企業が進出した。



wikipedia-日露戦争 >> 経過 >> 講和へ
詳細は「ポーツマス条約」を参照
 ロシアでは、日本軍に対する相次ぐ敗北とそれを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、国民の間には厭戦気分が蔓延し併せて経済も停滞の一途をたどり、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していた。さらにバルチック艦隊が壊滅し制海権も失っていた上に、日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけ、国家としての戦争継続が困難な情勢となっていた。
 日本は勝利に次ぐ勝利でロシアを土壇場まで追い詰めたものの、19か月の戦争期間中に戦費17億円[要出典]を投入、戦費のほとんどは戦時国債によって調達し、また当時の日本軍の常備兵力20万人に対して総動員兵力は109万人に達したことなどから、国内産業の稼働が低下し経済的にも疲弊するなど国力の消耗が激しかったことから、講和の提案を拒否しなかった。
 アメリカの仲介により講和交渉のテーブルに着いた両国は、8月10日からアメリカ・ポーツマス近郊で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
改訂履歴
※2016.7.2、リンク追加、「来るというから来るんじゃろ、通るというから通るんじゃろ」欄

2 件のコメント:

  1. あるけむ(R.K.M) @fwbc19652016年7月2日 0:58

    間違いではないですが、馬鹿なパヨクからツッコミが入りそうなので...
    >ちなみに、自衛隊を含む政府の最高指揮官は、ご存知の通り安倍総理です。
    「政府」は、行政のみを指す場合と、行政・立法・司法の全体を指す場合があります。
    この記事では、行政のみを指していると理解してます。

    返信削除
    返信
    1. もちろん行政です(笑)
      パヨクを甘く見てしまいました。

      削除

※恐れ入りますが、コメントは承認制とさせていただいております。
※非公開希望の場合には、その旨、ご明記願います。